みずのわ出版


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―詳 細―

途上国の人々との話し方 国際協力メタファシリテーションの手法

途上国の人々との話し方 国際協力メタファシリテーションの手法


途上国の人々との話し方

   国際協力メタファシリテーションの手法

和田信明・中田豊一 著
2010年10月刊
A5判並製441頁
本体3500円+税
ISBN978-4-86426-005-3 C0036
装幀 林哲夫
2015年8月再版(2刷)出来
   →【序 章】を読む




[目次]
序章 曇りガラスが晴れるとき――“なぜ?”と聞くのは間違いの始まり

第1部 メタファシリテーションの成立

第1章 「なぜ?」と聞かない対人援助コミュニケーション手法
1 朝ごはんいつも何食べる?――事実と考えの混同が曖昧なやり取りを生む
2 現実を構成する三つの要素と「Mのコミュニケーションの罠」
3 疑問詞をもとにした手法の体系化
4 ラオスでの実践からファシリテーター講座の開設へ
5 簡単な事実質問の力に気付く
6 相手が勝手に気付く

第2章 思い込み質問の迷路から「簡単な問い」へ
1 思い込み質問の迷路
  (1)国際協力への道
  (2)迷路からの抜け道
2 「簡単な問い」への目覚め

第3章 簡単な質問の先の壁
1 「簡単な質問」が私にもたらしたもの
  (1)インタビュー術訓練での学び
  (2)技法の芽生え
2 「簡単な質問」の先にある壁
  (1)自分たちの活動スタイルに対する疑問
  (2)何かがおかしいプログラム

第4章 メタファシリテーションの成立
1 対話術からファシリテーションへ
2 メタファシリテーションの誕生


第2部 メタファシリテーションを囲む「枠」

第1章 コンテクストが見えてきた

第2章 「コミュニティー」に至る道
1 ボトムラインに気付く
2 「枠」へのとっかかり――人間社会の主要構成要素
3 コミュニティーは変容する
4 コミュニティーの「枠」――空間としての捉え方

第3章 マクロとミクロの間
1 マクロとミクロを意識させる「分権化」――何をコミュニティーでマネージメントするか
2 マネージメントという「能力」
3 言語化するということとファシリテーターの役割――暗黙知と形式知
4 意識の変化と行動の変化
5 コミュニティーでの分権化の意味

第4章 国際協力のコンテクスト=近代化に伴う貧困現象の発生
1 私の体験としての他者の貧困
2 「貧しさ」の心象
3 プロセスを特定のコンテクストの枠組みに落とし込むために
4 このストーリーの普遍性


第3部 メタファシリテーションの実践

第1章 メタファシリテーションの技法解説
1 基本技能と練習方法
2 現場型対話式ファシリテーションの技法
  (1)最重要基本姿勢
    1事実質問の力を信じる
    2一対一の対話が基本
    3提案しない
    4信じて待つ――ファシリテーションの真髄
  (2)具体的な手順と考え方
    1セルフエスティームが上がるようなエントリーポイントを見つける=道具をほめる
    2課題を整理する:それは本当に問題なのか
    3一番最初に(最近)それが起こったのはいつですか?⇒時系列で質問を組み立てる
    4課題・問題の起点に遡る
    5解決方法を探る(1):自己の類似体験の追跡にこだわる
    6解決方法を探る(2):身近な他者の類似体験に学ぶ
    7相手から質問を受けたらチャンスだと思え
    8結論は絶対に当事者に言わせろ!
3 ファシリテーションを組み立てる技法=仮説を立てる
  (1)仮説を立てるということ
    1セルフエスティームの上がるようなエントリーポイントを見つける=道具をほめる
    2課題を整理する:それは本当に問題か?
    3解決方法を探る:自己の類似体験の追跡にこだわる
  (2)類似の体験・経験とは⇒「自分にひきつける」ということ

第2章 メタファシリテーションのプロジェクトへの応用
1 導入としてのトレーニング――パートナーシップの構築からCBIAへ
  (1)本気であること=対等な関係とは何か
    1最初からプロジェクトを持ち込むな:やるべき活動の根拠は、自分たちで見つけるよう働きかける
    2プロジェクトを組み立てるとき、パターンに陥らないこと:予断を持つ危険
    3パートナーシップとは、ギブ・アンド・テイクの関係:参加ゲームを避ける
    4相手の身になって仮説を立てる:相手に自分を客観視させるということ
    5具体的な技術を身につけることこそセルフエスティームにつながる
    6相手にこちらが本気でコミットしていることを示す
    7覚えた技術を教えることが自信につながる:いつも教えるのはこちらだという関係を作らない
  (2)トレーニングはなぜ必要か
    1トレーニングの必要な三つの分野
    2農村コミュニティーの知識の質とトレーニング
    3三つの分野の二つのレベル
    4トレーニングも事実質問から入る:自発的参加を勝ち取るには「参加」を強要しない
    5コミュニティーでの共有は繰り返して強調する
    6対象村の足並みが揃わないのも学びのチャンス
    7パートナーシップの構築は不断の努力
    8思い込みのエンパワーメントを避ける
    9プロジェクト期間を柔軟に使う工夫
    10現状の具体的な認識こそ必要な知識の認識へとつながる
    11農村コミュニティーでの数量的把握の意味
2 実施のためのトレーニング――アクション・プランから実施とモニタリング
  (1)アクション・プラン
    1農村コミュニティーがアクション・プランを作る意味
    2予算こそ核心:これを村人が作らずに村人のオーナーシップはあり得ない
    3アクション・プランづくりも技術:たくさん練習しないとできるようにならない
    4数値化がアクション・プランづくりで学ぶ重要な考え方
    5農村コミュニティーでの経済の二つの側面
    6ファイナンシャル・マネージメントの基礎知識なしに市場経済には立ち向かえない
    7収入向上を考えるならリスクヘッジも視野に入れる:農村の強みを失わない
    8コストという考えに馴染まないとメンテはできない
  (2)モニタリング――モニタリングをどう意識させるか
3 持続のためのトレーニング――評価とフィードバックと
  (1)持続をどう確保するか
    1住民組織づくりを急がない:コミュニティーそのものがすでに受け皿
    2組織を持ち込む前に村の「組織」を理解する
    3新しいリーダーたちをゆっくりと育てる
  (2)コミュニティーで評価するということ
    1評価はもともと日常的なこと
    2新しいコンテクストでの評価:無理のない「接ぎ木」をする
    3コミュニティーでプロジェクトを行うのは技術を移転するのが最終目的
    4評価は息の長い活動
    5フィードバックの意味:コミュニティーの本音の評価を引き出す


終章 結論に代えて


[著者]
和田信明(わだのぶあき)
1950年東京生まれ。ストラスブール大学人文学部中退。高山市の飛騨国際工芸学園教員などを経て、1993年にソムニードの前身の「サンガムの会」を設立。南インドで多くのプロジェクトを現在まで手がける。2002年にネパールでも活動を開始、2007年からは森林保全プロジェクトを実施中。併せて、旧国際協力銀行の委託による森林共同管理関連の調査をインド全域で行ったり、国際協力機構(JICA)の技術協力プロジェクトの短期専門家としてインドネシアを頻繁に訪れ、コミュニティー・ファシリテーター育成研修を行ったりと、ODAプロジェクトにも密接に関わる。その他、ラオス、ケニヤなどでもコミュニティー参加型事業形成・運営の研修を行う。2000年から2009年まで(特活)ぎふNPOセンター理事長。現在(特活)ソムニード代表理事(共同代表)兼海外事業統括責任者。非常勤で一般社団法人あいあいネット代表理事を務める。
連絡先 E-mail: info@somneed.org  ソムニード http://www.somneed.org/


中田豊一(なかたとよかず)
1956年愛媛県生まれ。東京大学文学部卒。アジア学院農場ボランティアなどを経て、1986〜89年、シャプラニール=市民による海外協力の会ダッカ駐在員としてバングラデシュで活動。1995年1月、兵庫県尼崎市で阪神淡路大震災に遭遇、直後より阪神大震災地元NGO救援連絡会議事務局長代行として救援活動に従事。同年5月から、1998年3月まで(社)セーブ・ザ・チルドレン・ジャパン事務局長。 1998年、参加型開発研究所開設。以後、フリーランスの国際協力コンサルタントとして活動。2004年から2年間、JICA派遣専門家として家族とともにラオスに滞在。現在、参加型開発研究所(研修、調査、コンサルティングなど)主宰。神戸市在住。非常勤の役員として、(特活)シャプラニール市民による海外協力の会代表理事、(特活)市民活動センター神戸理事長、(特活)ソムニード代表理事(共同代表)を務める。著書に「人間性未来論――原型共同体で築きなおす社会、(竹林館、2007年)、「ボランティア未来論」(コモンズ、2000年)など。
連絡先 E-mail toyobhai@yahoo.co.jp


[用紙/刷色]
ジャケット NTほそおり 新スノーホワイト 四六判Y目 100kg  K+DIC403/2°
表紙 NTほそおり 新スノーホワイト 四六判Y目 170kg  K/1°
見返し NTほそおり 濃鼠 四六判Y目 130kg
本文 淡クリーム琥珀N A判T目43kg





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[序章]

曇りガラスが晴れるとき──“なぜ?”と聞くのは間違いの始まり(中田豊一)


 現実が見えない

 のどかな田園風景が広がる東南アジアのとある国の山あいの村。国際協力団体に所属する私は、この村のために何ができるかを話し合うために、村人に集まってもらった。リーダーとおぼしき中年男性と私のやり取りが始まる。

 私  この村の一番大きな問題は何ですか。
 村人 子どもの病気が多いことです。
 私  たとえばどんな病気ですか。
 村人 一番多いのは下痢です。
 私  子どもたちが下痢になるのはなぜですか。
 村人 清潔な飲み水がないからだと思います。
 私  水はどこから汲んでくるのですか。
 村人 近くの池からです。森の泉まで行けばきれいな水があるのですが、歩いて一時間近くかかるので、重い水を運ぶのはたいへんです。
 私  井戸はないのですか。
 村人 ありません。
 私  あれば便利だと思いませんか。
 村人 思いますが、自分たちでは掘れません。
 私  どうしてですか。
 村人 技術も、資金もありません。
 私  私たちが援助しますので、掘りませんか。
 村人 ええ、そうできればありがたいです。
 私  私たちが支援するのは、資金と技術だけです。労働力を村から出してもらえますか。
 村人 もちろんです。
 私  掘った後、維持管理も自分たちでやれますね。それが約束できれば、援助します。
 村人 約束します。
 私  これで決まりですね。皆さんの井戸を皆さんで掘りましょう。子どもたちも健康になるでしょう。
 村人 ありがとうございます。母親たちも喜ぶことでしょう。

 私は、井戸掘りに必要な予算を調べ、村人や地域の行政と相談してこの地域に最適な井戸の掘り方を選び、そして設計図を作り上げた。こちらが提供する部分と、労働力をはじめとする村人が供出できる部分との分担も決まり、井戸掘りが始まった。作業は、当初の計画より少し遅れたが、これは途上国では当たり前のことであって、慌てたり焦ったりはしない。
 こうして、村人は、清潔な水を手に入れることができるようになった。手押しポンプ井戸からほとばしる水を掛け合ってはしゃいでいる子どもたちの姿や、水をうれしそうにバケツに移している女性たちの顔を忘れることはないだろうと私は思った。
 半年後、様子を見に行ったところ、周囲は少し汚れているものの、井戸は使われていた。
 それから一年ほど経ったある日、たまたまその村を通りかかった友人の日本人ボランティアから耳を疑うような話を聞かされた。手押しポンプの取っ手がはずれ、今はどう見ても使われていないようだという。私はその友人が村を間違えたのではないかと思って確かめてもみたが、やはり間違いなかった。
 数日後、私は村を訪ねた。やはり友人の話は本当だった。取っ手の取れたポンプは朽ちかけていて、コンクリートで囲った水場には、土やごみが溜まり放題だった。私が来たことを聞きつけた村の人たちが集まってきた。いっしょに計画した村人の一人が、私に言った。「手押しポンプの修理代を援助してほしいのだが」
 私は何と答えていいのかわからなかった。内心では、「自分たちでメンテしようともせず、また私たちに修理代をせがむとは、なんて主体性に欠けているのだ。こんなことでは自立はおぼつかない……」。湿気をたっぷり含んだ熱帯の微風に、私の体は汗まみれになっていたが、心には寒風が吹き荒んでいた。

 あなたはこの「私」に共感するだろうか? あるいは、逆に「私」のやり方に問題を感じるだろうか?
 結論から言おう。  この井戸掘りが失敗に終わるのは必然であり、その原因はすべて外部者である「私」の、村人との関わり方の稚拙さにある。そして、これこそが援助の最も典型的なパターンなのである。
 では、どこがどう間違っているのか、あるいは、どうすればもっとうまくいったのか。この疑問に対して本質的な答えを与えるのが、本書の主要な目的である。失敗に至るには多くの要素があるが、その最大のものは、最初に示した「私」と「村人」とのやり取りの仕方に潜む決定的な誤りであった。
 「私」は、村人に「問題は何ですか」と、聞いてはいけなかったし、「原因はなぜですか」とも決して尋ねてはならなかった。この二つの質問をしたり顔でし、その答えから相手の現実を理解したつもりになった「私」の愚かさ、拙さ、さらには傲慢が、村人の現実を覆い隠し、主体性を損なった元凶なのである。
 とはいうものの、「問題は何ですか?」「それはなぜですか?」と問い進めるのが、どれほど安易で稚拙なコミュニケーションであるか、かく言う私(中田)自身が思い知らされ、さらにはその意味が本当にわかるまでには、実に長い時間と苦い経験を要した。
 始まりは、私の最初の海外活動であった一九八六年からの三年半にわたるバングラデシュ駐在に遡る。バングラデシュに赴いたのは、シャプラニールという国際協力NGOの駐在員としてだった。援助をめぐる喜びも苦しみもすべての原体験はここで得たとさえいえる、私にとってはかけがえのない原点である。
 シャプラニールは、上記に描いたような民間の国際協力団体─今ではNGOと呼ばれることが一般的─の日本における草分けのひとつとして知られる。土地を持たない貧しい農民たちの生活向上を支援しており、私はその活動を実施するための現地事務所スタッフとして赴任した。住んでいたのは首都ダッカだったが、週の半分ほどは村々を回って活動をチェックしたり、人々の様子を尋ねたりしていた。ベンガル語は日本語と語順が同じなので、英語には未だに苦労している私にとって馴染みやすく、半年あまりのうちには日常会話に苦労しなくなっていた。外から見れば、家々を訪ねて親しく話をしている私は、村の生活に通じ、人々とも深いコミュニケーションが取れているように思えただろう。
 しかしながら、正直言って、村人の姿はいつも霧の向こうに霞んでいた。いくら同じ釜の飯を食べても、冗談を言い合ったり苦労話を聞かされたりしても、この曇りガラスが晴れることはなかった。農民たちの生活の現実に触れている気は全くしなかった。それがなぜなのか、内心では気が付いていたような気もするし、それも単なる思い込みで、本当のところは何もわかっていなかったようにも思える。とにかく私は、村人の現実に踏み込んでいるという手ごたえを感じることができないままに、三年半の駐在期間を終えた。
 その霧の正体が何なのかさえわからない私ではあったが、あえてそれを言葉で表すならば、次のような本質的な疑問に集約できるであろう。
 「人々は本当に援助を必要としているのだろうか?」
 「私たちの援助は、本当に役立っているのだろうか?」
 開発途上国の援助の現場に、援助する側の一員としてひとたび足を踏み入れたら、ほとんどの者が、遅かれ早かれこのような疑問に囚われることになると言えよう。私もそのお定まりのコースに入り、人知れず悩んだということなのだろう。
 これらは、問うのはやさしいが、明確に答えるとなるとこんなに難しい質問もない。私はこのような根本的な疑問を心の奥底に抱きながら、どうすればそれに答えられるのかまったくわからず、途方に暮れていた。日本に戻って、バングラデシュの農村のことや、シャプラニールの村での活動のことをしたり顔で語ったり書いたりしながらも、この曇りガラスの感覚が消えることはなかった。
 私の問題は、援助に関わる本質的な問いに答えられないという以前に、その前提となるはずの、村人の現実を理解すること、あるいは本当の声を聞くことなどがまったくできていないという感覚に囚われていることだった。
 東京のシャプラニール本部事務所で数年働いた後、関西に移り、セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンという国際協力NGOで働き始めた。そこでもネパールやフィリピンの現場を頻繁に訪ね、現地の人々と交わったりしながら活動に関わったが、目の前に霧がかかった状態はいつも同じだった。
 アメリカのセーブ・ザ・チルドレンがベトナムで実施している活動に関わる機会もあり、それを主導しているアメリカ人スタッフには、私に見えないものが確かに見えているようだった。しかしながら、彼らと私のメガネの透明度の違いがどこにあるのか、決定的な理解に至ることはできず、曇りはわずかに薄くなったに過ぎなかった。


 曇りガラスが晴れる時

 そのガラスの曇りが目に見えて晴れ始めたのは、二〇〇〇年二月に、和田信明といっしょにある調査団のメンバーとしてラオスを二週間ほど訪ね、彼の村人とのやり取りを目の当たりにしたときだった。調査団の目的は、日本の政府による援助プロジェクトとNGOの支援によるプロジェクトの現場を見て回って、両者を比較したり簡単な評価を行ったりすることだった。
 和田信明は、岐阜県の高山市に本部を置く国際協力NGOソムニードの創設以来のリーダーである。初めて和田と会ったのは、私がシャプラニールの駐在員としてバングラデシュにいた一九八六年のことだった。その頃、和田は、家族でアジアを旅行していて、たまたまシャプラニールのダッカ事務所に立ち寄った。互いに気が合うものを感じたのだろうか、その後も、付き合いが続いていたのだが、そのラオス調査団でいっしょになる前の数年間はほとんどやり取りがなかった。私は和田との再会を心から喜んだ。しかし、結果としてそれが私にもたらしたものは、旧交を温めるなどという生やさしいものでなかった。
 調査団の団長をつとめた和田は、行く先々の村で、率先して村人や担当職員へのインタビューを行った。その方法やスタイルは、私にとって実に衝撃的なものだった。彼は、村人のひとりをつかまえて、執拗に細かな事実を尋ねていく。あまりに細部にわたっているようで、私は、はらはらしながら見ているのだが、聞かれる相手も和田も倦むことなく延々とやり取りを続けていく。こんなやり取りにどんな意味があるのだろうと思って聞いていると、突然、予想もしなかった発言が村人から出てくるのだった。
 詳細は忘れてしまったが、例えば次のようなやり取りがその典型だった。
 ビエンチャン近くのある農村で、ラオス政府森林局は、日本政府の援助機関JICA(国際協力機構)の支援を受けて荒廃林の植林を村人といっしょに行っていた。整地や植林に必要な資材費をJICAが負担する代わりに村人は労働力を提供し、その後も、植えた木の世話と森林の管理を村人の責任で続けていく。木々がある程度大きくなったら、計画的に伐採して販売する。売り上げの一定部分を政府農林局が取り、残りは村人の収入になるという仕組みだ。
 村人はその活動の管理運営のための委員会を作っていた。和田は、例によって委員長を相手に、「いつ植えたのか?」「樹種は何か?」「どんな作業を誰がしたのか?」などをこと細かに尋ねていった。委員長はそれに着実に答えていく。互いに立ったままで三〇分近くも細かなやり取りが続き、私がじりじりし始めた頃だった。
 和田が尋ねた。「この木は何年後に売るのですか?」
 委員長「一五年から二〇年後くらいかな」
 和田「誰が売るのですか」
 委員長「その頃は自分は老人だろうから、子どもたちだろうな」
 和田「誰に売るのですか」
 委員長「えっ、JICAが買ってくれんじゃなかったの」
 この答えが出てきたところで、和田は、委員長に丁重に礼を言って、インタビューを打ち切った。周りで聞いていた私たち調査団の面々はもちろんのこと、同行したJICAのプロジェクト専門家やラオス政府の担当職員も委員長の発言に唖然とした。村人に対しては、この活動の仕組みについて何度も何度も説明し、研修を重ね、確実に理解してもらっていたはずなのに、委員長にしてからが、将来、木材はJICAが販売を手伝ってくれるものだと信じ込んでいることが暴露された。JICAからすれば、プロジェクトは数年で終わり、その後はラオス政府森林局がケアを続けるわけで、一〇年も一五年もの先のことに責任が持てるはずがない。仮にできたとしても、そうする筋合いのことではない。ところが村人は何から何までJICAがやってくれるものだと思っている、つまり強い依存心を持っていたわけだ。
 この場に居合わせたプロジェクトの関係者全員がこのやり取りの意味を理解したわけではなかったが、何人かはことの重大さに気がつき、その後、軌道修正を図ったに違いない。二〇〇五年に私がそこを再び訪ねた時には、村人は主体的に植林地の管理に取り組んでいて、木々もずいぶん立派に育っていた。
 このように和田がやり取りを重ねているうちに、必ずと言っていいほど、人々の本音やことの真相が相手の口から飛び出してくる。それらの本音や現実は、私がバングラデシュやネパールの村人からは決して聞いたことのない類のものだった。もっと言えば、私が無意識のうちに敢えて聞きだそうとしていなかったようなことばを、和田は、巧妙なインタビューによって、自由自在に引き出して見せたのだった。私はやっと気がついた。「こういうやり取りができなかったから、私と村人との間は、いつも曇りガラスで隔てられていたのだ」と。
 しかしながら、その時は、どのような仕組みでそれが起こるのか、和田が使っているインタビュー術の秘訣はどこにあるのかまったく見当がつかず、ただその妙技に感嘆していただけだった。
 翌年には、別の調査でインドネシアに同行し、和田といっしょに村を回る機会を再び得た。そこでも、和田は、目の覚めるようなみごとなインタビューを見せてくれたのだが、今も強く印象に残っている場面をひとつだけ紹介する。
 私たちは、南スラウェシのある村で、農家の若い奥さんを相手に、マイクロ・クレジット(農村小規模金融)の使用状況などについてひとしきり聞き取りを行った。周囲を隣近所の人々が大勢取り囲む中、和田は、例によってこと細かな質問を重ねていった。やがて、彼女が、借りたお金をどのように使い、そこからどのような利益があったのかなかったのかが、具体的に浮かび上がってきた。その過程で彼女は、どの程度の利益が本当に上がったのかを自分でも把握していなかったこと、そして和田の質問に答えているうちに、労働の割にはたいして儲かっていないことに気がついたようだった。
 インタビューを切り上げる際に、和田は、「長時間、お付き合いしてくださってありがとうございました。本当にお疲れさまでした」とお詫びを兼ねたねぎらいのことばをかけた。すると、彼女は「いいえ、全然疲れませんでした。それより私のことを聞いてもらって本当に嬉しかった。ありがとうございました」と嬉々とした顔で応えた。プライバシーに関わるとさえ思えるような詳細で微妙な質問もずいぶんしたはずなのに、彼女はそれを楽しんでいた。決して社交辞令でないことは彼女の表情から確実に見て取れた。
 和田は、このやり取りを、現地語と日本語の通訳を介して行っていたのだが、通訳を務めてくれた現地出身の大学の先生が、その後、私に陶然とした表情でこう漏らした。「なんてすごいインタビューなんでしょう。まるで二人の間に私がいないみたい」
 通訳たる自分の存在を、彼女自身が忘れるほどに、二人のやり取りが自然でスムーズだったということなのだろう。
 私は、この時にはすでに和田流インタビュー術の仕組みを探ろうという意図を持って、やり取りの観察を始めていた。道すがら、和田にいろいろ質問することで、彼の意図するところや勘所について教えてもらいもした。
 とにかく和田のインタビューは、シンプルだった。単純な事実を芋づる式に一問一答の形でただ聞いていくだけだ。同行した長畑誠(当時はシャプラニール職員。現在「あいあいネット」主宰)は、現場で早速自分でも試そうとしたが、聞いていくうちにすぐに尋ねることがなくなったり、質問を次に繋げられなくなったりで、討ち死にを重ねるだけだった。そう簡単に真似できるものではないことを、私は思い知らされた。
 帰国後、私は、そのメカニズムの解明に自分なりの方法で着手した。和田自身、言語化しないままに使っていたので、手法として体系的に語るほど整理されていなかった。理屈ではなく体で覚えるのが職人技であるから、それは当然といえば当然なのだが、他者がそれを学ぼうと思えば、ある程度の理論化と体系化はどうしても必要になる。私はそれを試みようとしたわけだ。


 メタファシリテーション手法の成立

 その後も、和田とインドやインドネシアに同行する機会は多く、その都度私は、彼と現地の人々とのやり取りを観察し続けた。やがて、和田のインタビュー術の底にある人間観、あるいは人間心理の仕組みの洞察にまで思いが至るようになった。それを和田と共有しながら理論化し、体系化しながら、自分でも練習を続けた。そうして、ある程度はそれができるようになった。本書で紹介する手法は、こうして生み出されたものである。
 私と和田は、その手法の底にある方法論的な原理について深めていく中で、この手法をメタファシリテーションと名づけるのがふさわしいと考えるようになった。
 ファシリテーションは、英語の「facilitate=促進する、容易にする」の名詞形である。近年ではかなり一般化した用語なので、聞いたことのある方も多いに違いない。開発援助プロジェクトの計画立案などにとどまらず、まちづくりなどのための参加型のワークショップなどの進行役がファシリテーターと呼ばれるようになり、それに連れてファシリテーションという語も広まったとされている。そして、その技能の核心を一言で表すならば、ワークショップなどにおいて、参加者の気づきを「促す」ことにあるとされている。
 和田の卓絶した技に出会ったばかりの頃、私はそれを単なるインタビュー術としか見ていなかった。あるいは、相手の質問にも応じながらやり取りを進めるという意味で、対話術と呼んでみたりもした。呼び方はともかく、それをつぶさに観察し、分析していくうちに、和田は対話を通して常に相手の気づきを引き出そうと意図していることがわかってきた。これこそワークショップなどの設えられた場にとどまらない、現場でのやり取りにおいて必要かつ極めて有効な真のファシリテーションであるという確信を、私は抱くに至った。
 通常、ファシリテーターはワークショップや会議などのあらかじめ設えられた場でグループワークの進行を手伝う人というイメージが一般的である。しかしながら、私は常々、そういう人為的な場でのファシリテーションによる気付きや意識の変化の限界を強く感じていた。一歩、外に出てしまえば、元の現実がまっていて、いくらワークショップで気がついても、すぐにまた意識は元に戻ってしまうことを、自分自身何度も体験してきたからだ。ところが、和田が私に示して見せたのは、そのような人為的な場作りなしに、いかなる場でも対話を通して気づきを促すこと、つまりファシリテーションは可能であるという事実だった。
 和田との出会いによって、私は、それまで持っていたファシリテーションの概念を一変させられた。あるいは、そもそもファシリテーションとは何かということも、特に定義もしないで使っていたことからすれば、私は、和田の技を目の当たりにして、初めてファシリテーションの真の意味に行き着いたとも言えるのである。
 一方、「メタ」は、メタ認知という心理学の用語から取ったものである。メタ認知とは、自分が何かを認知(理解)しようとしながら、同時にそういう自分自身を認知(理解)する行為や機能のことを指すのだが、これだけではなかなかわかりづらいと思う。詳しくは、第1部第4章と第3部第1章で解説するので参照願いたい。
 さて、このメタファシリテーションは、その後も次々と進化を遂げた。単なるコミュニケーションツールにとどまらず、課題の分析手法を提示し、開発や貧困をどう見るかという新たな視点までも提供している。こうしてメタファシリテーション手法は、開発援助プロジェクトのあらゆるプロセスで活用できるものとなった。同時に、日本国内での研修や教育、さらには私たち自身の日常的な課題解決の手法としても応用可能なものにまでなりつつある。
 その全貌を伝えるのが本書の目的である。国際協力活動に関わっている方はもちろんのこと、職業として、あるいはボランティアとして対人援助に携わっている方々、さらにはそうした分野に関心を持つ若者たちを、読者として想定した。
 理論書的な性格も併せ持ってはいるが、最大の特徴は実践的なことにある。私たちが実施する研修や講座に直接参加する機会がなくても、本書に従って練習するだけで読者がある程度の技能を身につけられるよう、実際的な練習方法を詳しく紹介した。手法の核心部分をなすたったひとつのことを意識して自己訓練していけば、読者の目の前に、新しい視界が必ずや開けてくるに違いない。
 執筆方針として、中田と和田が交互に執筆する形をとり、各章の冒頭もしくは中見出しに執筆者名を明記した。表記法等について統一、調整したつもりだが、それぞれが担当別に記名で書いたこともあり、重複や用語の定義のずれがあるかもしれない。
 なお、本書は次のように三部構成となっている。

  第1部 メタファシリテーションの成立
  第2部 メタファシリテーションを囲む「枠」
  第3部 メタファシリテーションの技法

 第1部と第2部は、叙述的な書き方が中心だが、第3部は、読者が実践する際の手引書となることを想定して、そのような体裁にした。目次も詳しく、写真も多めに載せた。





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