総 合 案 内 

 みずのわ出版
   TOPページ

年度別 ・ 総目録

・全書籍一覧
・08年刊行分
・07年刊行分
・06年刊行分
・05年刊行分

ジャンル別

・宮本常一
・民 俗 学
・神 戸
・韓 国 ・ 朝 鮮
・詩 ・ 小 説
・評 論 ・ エッセイ
・社会科学
・美 術・写 真
・周防大島・沖家室島

シリーズ

・みずのわ文庫
・なぎさの記憶
・かむろ復刻版
・spin
・宮本常一写真図録
・宮本常一離島論集

お問い合わせ、等

・ご注文方法 ・ 問答
・FAX・封書兼用
      注文用紙

・自費出版のご案内

みずのわ放送局
本屋の眼番外 神戸・本屋漂流記


画=林哲夫「本屋の眼」より


将来の単行本化を前提とした月イチ更新のコーナー、です。
この先、少しずつコンテンツを充実させていく所存です。
次回更新は9月1日の予定です。
2008年8月1日更新

(← 林哲夫・画/平野義昌「本屋の眼」より)

第1回第2回 第3回
第4回 第5回 第6回
第7回 第8回 ◆◆◆


【第8回】本屋のこと、思い出すままに(8)
   平野義昌(海文堂書店)


 村田耕平氏のこと(2)
 昭和30年代、非常に大雑把に言ってしまうと、敗戦から復興し、安保闘争や労働争議で、民衆は政治・社会に対する意識を高め、読書や本の購入にも積極的になっただろう。高度成長の入口で、勤め人の収入が安定し、家電製品が各家庭にやって来る。ベビーブームの子どもたちの成長が、経済活動のターゲットにもなる。家庭の教育熱も出版業界にとって絶好のメシの種だった。
 ここで思い出した。「馬のマークの参考書、じゅじゅじゅ受験研究社」というTVコマーシャルがあった。前回「受験研究社」の名前が出なかったが、「増進堂」は「増進堂・受験研究社」。気づくのが遅い。「自由自在」が主力商品。「教学研究社」は「船」のマークで「力の5000題」。「文理」は教科書準拠の「ワークブック」。他にも「新興出版社啓林館」が「新興」名で「ハイテスト」、「啓林館」名で教科書と準拠版、「文研出版」名で「グリップ」「アタック」を出版。みな大阪の大手学参出版社。ちなみに「チャート式」の「数研」は創業京都だが、当時は東京に本社を移している。
 この時代、小売書店もどんどん増え、村田耕平氏(三宮ブックス代表/兵庫県書店商業組合事務局長、以下敬称略)が語るには「本屋という商売が商売として成立した時代、頑張ればその努力が報われた」。本屋に活気があり、それぞれの本屋が「文化の伝道者の気概を持っていた」と。
 オヤジさんは朝の荷物がすんだら、配達や外商、それに仕入れに出かける。北風一雄氏(旧・南天荘書店代表取締役/旧・コーベブックス専務)の自伝にも毎日大阪に通う記述がある。現在は面影もないが、大阪の堂島・曽根崎新地界隈には大手・中小の問屋、出版社、本屋が集まっていた。問屋の店頭販売所(店売)に近畿一円の本屋が商品の調達に来て、風呂敷に包んで担いで帰った。毎日来る人もいれば、週に2〜3回という人も。おのずと店売はオヤジさんたちの情報収集の場になる。
 「○○売れてるか?」
 「××が入らんで困ってる」
 「ウチ余分があるから、明日持って来るわ」
 本を融通し合うことも度々あった。今のITとは全く異なる手作業であり、往復の時間をかけて集まる濃密な人間関係・情報交換・交際の場だった。
 オヤジさんたちは、どこの店売のどの棚にどんな本があるか、頭に叩き込んでいた。お客の注文を受けても「それなら大阪の問屋にありますから、明日持って帰って来ます」と即答できた。確かに現在と比べれば出版点数もジャンルも少ない。しかし、「今日の客注は明日」というのが「本屋のオヤジの意地」であった。村田が言うに、本屋にとって「ほんとうに楽しかった時代」「堂島・曽根崎が燃えていた時代」で、販売力のある本屋が各地にたくさんあった、と。その販売力に大手出版社が頼って「企画商品」を売り出すのはもう少し後の話。
 問屋にとっても競争は激しかった。本屋の要求は、どの問屋が早く欠本を補充できるかだし、欠本を見つけた問屋に注文をした。ひとつの本屋に複数の問屋が出入りしていて当たり前の時代。問屋の営業訪問はオートバイ、配送はミゼットになっていく。大阪の大手書店には毎日通い、神戸・明石には週に2〜3回。例年新学期前は徹夜の連続、祝日の休みはなし。そんな競争の最中でも問屋同士仲がよく、親睦の会もあったそうだ。
 

(2008年7月記)


本屋の眼番外のTOPに戻る


【第7回】本屋のこと、思い出すままに(7)
   平野義昌(海文堂書店)


 村田耕平氏のこと(1)――連続になるか、断続的になるか不明。
 村田耕平氏(以下、敬称略)は1936年(昭和11)生まれ。元コーべブックス常務取締役で、現在三宮ブックス代表、兵庫県書店商業組合事務局長。三宮ブックスは外商のみの活動。阪神・淡路大震災当時は組合副理事長で、その後理事長を長く勤めた書店業界の重鎮。大物・傑物と言ってよい。業界の人望・信望篤い人物である。どれほどの人かは、ゆくゆく明らかになるだろうが、今私なりの表現だと「一旦本屋から離れた人間をすんなり雇ってくれた」恩人。今回はこれでご勘弁を。
 村田の業界入りは52年(昭27)頃。高校在学中、家庭の事情で全日制から定時制に替わらざるを得なくなった。校長に相談すると、学校出入りの学習参考書専門問屋「関西書籍」(東京の出版社専門)を紹介してくれ就職、学帽・学生服の社員となる。会社は大阪堂島。ここには出版社・問屋・書店が集まっていた。当時の月給が3500円。月謝500円の残りをそのまま家計に入れた。本屋まわりで神戸にも阪神電車で通った。元町の「宝文館」で活躍していた人が、後に海文堂の番頭さんになる清水晏禎(やすよし)氏。
 勤務した問屋が倒産する。まだ夜学生。村田は学参専門問屋(大阪の出版社専門)で教科書販売会社「大阪宝文館」(元町の「宝文館」とはまったく別会社)に移る。本屋まわりをしながら高校の教科書販売を担当。町の本屋と百貨店書籍売場。阪急、大丸、そごう、近鉄など百貨店はどこも充実した品揃えを誇っていたそうだ。学校は、夕日丘高校、興国商業、大阪商業。当時の教科書は上製本で分厚く重い。運ぶのは自転車、まだモータリゼーションの時代ではない。大阪の街は、広い平野である。しかし、坂道は存在する。夕日丘と興国は大阪平野のなかでも数少ない坂の上、上町台地だ。上本町に坂が何本かあって、きついが短い坂、ゆるいが長い坂、その都度選択する。堂島から阿倍野まで教科書販売のたびに5往復はしなければならない。1校が1日で終わる訳ではない。春の新学期、小僧さんにとっては肉体労働以外の何ものでもない。前輪が浮き上がるのをハンドルにしがみつくようにして漕ぐ。太腿は競輪選手並みになり、この時基礎体力が培われたと述懐する。
 55年(昭和30)「大阪宝文館」も倒産。幸い学参出版社がさそってくれた。ところが、明日が初出社という夜に「宝文館」時代の同僚で本屋をしていた人が来宅(京阪沿線)。「文開堂」という学参専門問屋(大阪の出版社専門)の社長を伴っていた。そこに入れ、と。翌日出版社は断わることになる。
 「人生の転機というのは一瞬で、先を見る・読むというが、読みきれないことのほうが多い。今ある事象を感知し、今ある人生をまっとうすることやな」
 そう語る人の別の人生を「もし……」と考えても仕方のないことではあるだろう。村田はこの後、何度も重大な選択をせねばならない立場になる。
 ここまで、村田の本屋渡世は学参一筋である。そんなに学参が売れたんですか? 思わず質問してしまった。  戦後のベビーブームで進学熱が高まり、本屋で学参が売れに売れて主力商品だった時代。それも関西の出版社が圧倒的に強かったのだ。( )で東京専門とか大阪専門と書いたのも問屋の色分けがはっきりとあったから。教学研究社、増進堂、文理……、競争が激しく、二色刷りの本が登場するのもこの頃のこと。
 当時の失敗も話してくださった。自転車で運搬中にタクシーとぶつかったこと、内緒で会社の自動車を運転して誤ってお寺に突っ込んでしまったことも。
 さて、村田は60年(昭和35)に一旦「文開堂」を辞め、後継者不在の兵庫県高砂市の本屋を応援することになる。当然将来は引き継ぐということだったろう。この時、後に妻となる「文開堂」社長の娘が先に本屋に来ていた。翌年高砂神社で結婚。その頃の高砂は大会社の工場が次々進出していた。国鉄高砂工場、神戸製鋼、武田薬品、キッコーマン、鐘淵化学、三菱製紙など。平凡社の『国民大百科事典』全8巻が大量に売れた。
 結婚のいきさつについては詳しく話してはくれない。で、また勝手に想像すると、ひょっとして、駆け落ち? これは確認取っていません。冗談半分の話。文責はもちろん、私。

(続く)

[訂正]
 第2回で登場、宝文館「柏佐一郎氏」を「現社長の3代くらい前では……」と書きましたが、現社長の祖父にあたります。バックナンバーの該当箇所を修正します。

(2008年6月記)


本屋の眼番外のTOPに戻る


【第6回】本屋のこと、思い出すままに(6)
   平野義昌(海文堂書店)


 5月18日海文堂2階〈Sea Space〉にて、歴史研究家安井裕二郎さんが、蒐集した貴重な元町の画像をスライドにして公開してくださった。本稿も大いに参考にさせていただいている『識る力――神戸元町通で読む70章』(ジャパンメモリー)の編著者。出版・書店関係では、「船井弘文堂」(明治10年代に出版業、新聞舗)発行の本の表紙、「熊谷久栄堂」の商標、「川瀬日進堂」(元町1丁目にあったが宝塚市仁川に移転)の店内風景、「日東舘」店頭など。いずれも初めて目にするものばかり。海文堂の旧名「賀集書店」時代の図書目録も。これは海文堂にもある。

 北風一雄氏のこと(3)
 北風一雄氏(以下、敬称略)の謡いは玄人はだしで、旧宅には能舞台があったとか。蔵書も立派だったはず。芦屋の谷崎潤一郎記念館に長男氏が谷崎の初版本を寄贈している。能舞台も蔵書も南天荘・コーべブックッスと共に消え去ってしまった。思い出す容貌は、気鋭の経営者というより、やはり本屋の親爺さん、と言えば失礼だろうか。『六十年史』に戦後まもなくの写真が掲載されているが、私の覚えている「顔」そのままで写っておられる。
 自伝と年表の記述から、「本屋」に対する一雄のロマンを私は勝手に推測する。戦前会社を辞め古本屋開業、戦後の再開店、新刊を載せた大八車を引いて六甲の坂を登っていた頃、店舗拡大、それに出版への思い入れ。しかし、いいことばかりではない。
 ここまで主に一雄の自伝を基に書いてきた。少部数自費出版の自分史で、登場する関係者は家族を含めても少ない。すべてが「事実」と合っているわけでもない。長い付き合いの村田耕平氏(元コーべブックス常務、現三宮ブックス社長、以下敬称略)に話を聞く。
 村田は取次会社文開堂の社員で、一雄の経営する中央堂書店と取引があった。その村田によると一雄の書店経営には夫人の功績が大きく、当時業界で「女傑」と言われるほどの存在であったという。自伝には夫人と一緒に働いた話や感謝のことばはあるが、そういうエピソードはない。また、苦楽を共にした村田の名も西武高槻店焼失(1973年)の時1度登場するだけ。村田の一雄評は「古いモノを壊して新しいモノをつくるということについて素晴らしい力をもつ人」。南天荘買収に際しては銀行からの資金のほか、業界も相当な支援をしたそうで、「北風一雄の人望」によるものと。
 前回の年表、当初「自伝」の記述どおりに作成したのだが、村田の話からだいぶ違っていることが判明し、入稿後にみずのわ柳原社主に訂正を願った次第。「自伝」には「63年コーべブックス設立」とあるが、正しくは「神戸出版販売設立」だった。ただ名称が違うだけではない。従来、「コーべブックス」は大手有名書店の神戸進出に危機感を持った地元書店有志が共同出資して設立・出店した――とされてきたし、私もそう聞いていた。しかし、話はまったく違う。当時鶴書房という出版社の旅行で同室になった若手経営者が議論するうちに意気投合。それが、海文堂岡田一雄、日東舘石丸悌二郎、南天荘北風一雄に明石と淡路の2書店。皆40代半ば元気一杯の社長たち。資金を積み立て会社を作ったが、具体的に事業をするというより「勉強会」というもの。2年後(1965年)さんちかタウンができるのだが、オープン半年前に、この「会社」の存在を知ったさんちか営業責任者から出店の話がきた。大手書店進出の話があったらしいが、どの書店ということは当時も今も明らかではない。最初は25坪で場所は国際会館寄りのところ。2年後(1967年)の改装時に63坪で、私たちのよく知るあの場所になった(三宮センター街東端、旧住友銀行三宮支店地下)。現在では考えられないが、当時ワンフロア63坪という書店は画期的なことで、全国的に話題になったというから、ひょっとすると、「コーべブックス」が大規模書店の「魁」だったのかもしれない。コーベブックスさんちか店増床のわずか2年後(1969年)には、梅田紀伊國屋が一挙に10倍のスペースで出現することになる。大書店時代の到来だ。
 さて、話のついで。村田はコーべブックスに加わることになるのだが、社員となる前から店作りや棚の設計に参加していた。今の海文堂2階〈Sea Space〉の奥が社長室で、そこで毎晩遅くまで作業して、時には岡田社長が高級ブランディを飲ませてくれたとか。後、村田は正式に入社となるが、妻女は何と文開堂社長の娘(私も長いお付き合いだが、今回初めて知った)。紆余曲折というか、ドラマがあったような気がする。コーべブックス、村田耕平氏についてはいつか。
 自分史の記述は思い込みやら、都合のいい記憶ばかりで当然だろう。一雄が経営面で「神様」と言われる評価のある一方、後継者にとっては大きな「負の遺産」を残したことも他方事実である。一雄は震災後避難した大阪で亡くなる。長男氏との間に深い確執というものがあっただろう。当然両者に言い分があることで、私がここで立ち入るべき問題ではないし、そんな立場でもない。ただ、後継者に重い負担が残り、いろいろあって、結果ふたつの地元書店が消滅したということしか言えない。
 この項はここで一旦終了。

 書店組合の事務局で1枚のコピーをいただいた。「日本出版物小売業組合全国連合会」の1955年(昭和30)の名簿で、関係者が偶然古書店で入手したものだとか。その神戸市部分、組合加入書店33店。そのうち今現在も存在しているのは8店。50年経っての生存率24%は高いのか低いのか? 旧生田区(三宮から神戸駅にかけて)では9店のうち2店のみ。宝文館と海文堂、天然記念物並み。もう「保護」の段階だ。でもね、誰にも頼れん、この世の中は市場原理じゃ。
 今回ここまで。

「日本出版物小売業組合全国連合会」の1955年(昭和30)の名簿

【参考文献】
須田京介『風果てぬ 北風正造外伝』神戸新聞総合出版センター(2008年3月)
北風一雄『星と風』(1992年12月)、『六甲管見』(1994年6月)いずれも自費出版
兵庫県古書籍商業協同組合編・発行『六十年史』(1975年1月)

(2008年5月記)


本屋の眼番外のTOPに戻る


【第5回】本屋のこと、思い出すままに(5)
   平野義昌(海文堂書店)


 北風一雄氏のこと(2)
 北満州でどうなったか? 前回、思わせぶりな終わり方だったが、無事生還できたから後の人生があったわけで。
 北風一雄(以下、敬称略)は通信兵。翌1944(昭和19)年新潟県高田市(現、上越市)に配属、そこで敗戦。満州なら運良く生存でもシベリア送り、そのうえで運が良くて何年もかかって生還が叶う。戦争という巨大な力の渦中にある、弱い小さな個人個人の運命だ。
 自伝に満州での本に関するエピソードがある。休みの外出で一杯呑み、本屋を覘く。吉川英治の『宮本武蔵(地の巻)』を買い求め、兵舎に戻る。「先に読ませろ」と四方から手が出る。器用な人がいて、1冊を3冊に分け、表紙をつけて、まわし読みしたそうだ。
 当然、2巻、3巻を先に読む人がいた。それでも読みたい。きっと、一雄は先に皆に読ませたろう。私が勝手に想像するだけ。『きけわだつみのこえ』(岩波書店)に、活字好きの兵士が衛生班からメンソレの効能書き(これが活字びっしりだとか)をもらい貪るように読んだ話があった。
 閑話休題。
 神戸に戻ってみれば焼け野原、家族は無事だったが義兄の星野は戦死、多くの友人も亡くなっていた。
 三宮の闇市でコンサイス英和辞典が1冊売りに出されていた。「さすが神戸だ。こんな場所で本が出るのがうれしかった」が、買った男は巻きタバコにすると嘯く。
 「愕然として、その男を見た。コンサイスが巻きタバコの用紙になる。その用途に驚いた。その無神経は何からくるのか。亡び行く文化を目の前に見た。俺は本屋を再開しよう。絶対の使命だ。誓いに似た、そして無性に腹が立つのをどうしようもなく、焼け跡の道を西日を背に、長々と自分の影が地面に引くのを見ながら帰った」
 元の場所にテント張り3坪で再開。親戚・友人から掻き集めた本で「変てこな本屋」ができ、「意外に活発に動きだした」。
 庶民も本に飢えていていた。
 さて、一雄、古書籍組合の役員・理事長を勤めた後、新刊書店に転向することになる。
 兵庫県古書籍商業協同組合の『六十年史』による。1945年(昭和20)10月、長田で市場が再開され、組合仮事務所も設置された。神戸新聞に組合名で古書籍買い入れの広告を出す。書籍蒐集と同時に組合員に活動再開を知らせるためで、市内中東部地区の連絡役として一雄の名前がある。47年(昭和22)6月の改組で理事、49年(昭和24)4月専務理事、同6月理事長就任。翌年専務理事のあと、その次の年には名は既にない。ちなみに、48年(昭和23)8月現在の組合員名簿に「南天荘書店 行永アイ」の名が見える。
 戦後も新刊を積極的に扱う。毎朝国鉄六甲道駅止めで入荷する荷物を大八車で取りに行く。
 「荷崩れに注意して、六甲道の坂を、弟の後押しで、エッチラエッチラと登り、市電道で一息入れて、西へ1キロ、中央筋の入口に来ると家内が待っており、力を合わせて一気に坂を駆け抜けわが店に到着、山積みの荷を店員一同が荷解きする。そのころ周囲の店が起き始める」
 理事長まで務めながら新刊専門に転向しての思いは、「業者間の競争は激しかった。それだけに活気に満ちていた」。
 60年(昭和35)南天荘書店の株を取得し、翌年営業権一切を行永卯三郎氏から継承。第1回に書いた梅田出店は69年(昭和44)、紀伊國屋書店と同じ年にオープンしている。地元の猛反対は南天荘にもあった。68年(昭和43)阪急六甲駅に出店。国鉄六甲道駅南北他出店、営業権取得と88年(昭和63)時点で5店舗(梅田店は1978年閉店)。
 神戸出版販売株式会社(のちコーべブックス)設立が63年(昭和38)で、さんちか店オープンが65年(昭和40)。南天荘を長男氏に任せるのは70年(昭和45)頃だろうから、超多忙であったはず。両社の年表を重ねてみる。


南天荘コーべブックス
1960南天荘書店「株」取得   ――
61同「営業権」継承   ――
63   ――神戸出版販売設立
65   ――さんちか店オープン25坪
67   ――さんちか店改装63坪
交通センタービル文庫専門店
68阪急六甲店   ――
69大阪梅田店   ――
73メイン六甲店西武高槻店開店当日全焼、伊丹店
74   ――サンこうべ店、西武高槻店、出版部
77梅田店閉鎖   ――
78白鴎ブックス営業権出版部閉鎖
80   ――西武高槻店増床


 まだ続く予定。

【参考文献】
須田京介『風果てぬ 北風正造外伝』神戸新聞総合出版センター(2008年3月)
北風一雄『星と風』(1992年12月)、『六甲管見』(1994年6月)いずれも自費出版
兵庫県古書籍商業協同組合編・発行『六十年史』(1975年1月)

(2008年4月記)


本屋の眼番外のTOPに戻る


【第4回】本屋のこと、思い出すままに(4)
   平野義昌(海文堂書店)


 南天荘書店のこと(2)
 海文堂福岡店長が持って来てくれた3月4日付神戸新聞姫路版に、日本基督教団曽根教会(高砂市)の牧師さんの話が掲載されていた。4月から西宮の教会に異動されるそうだが、地方の片隅の牧師の話が記事になるのがちょっと不思議。前日の同紙にも「禁煙支援フォーラム」の記事があり、そこにもその牧師さんが登場している。播州地方では有名人らしい。
 「誰やねん? すごい人なんか? 訳わからん」
 ご存知の人はご存知。震災後書店勤めを辞め、関西学院神学部大学院に入り直し、牧師になった元(はじめ)正章さんのこと。曽根教会に赴任して早や5年。何度か海文堂に来てくださっていたが、山陽電鉄沿線とはいえ、ちと遠い。風の噂で、そろそろこちらに帰って来るらしい、とは聞いてはいたが……。業界関係者及び俗世間の皆さん、彼がまた、いろいろ話題を提供してくれることでしょう。
 私、早速教会にメール。「落ち着いたら取材を」と、お願いした。ついでに一つ質問。北風一雄氏(旧・南天荘書店代表取締役/旧・コーベブックス専務)のルーツについて、「兵庫津の豪商・北風家の縁と聞いたことがあるが……、事実は?」と。
 元さんの回答は「北風家の傍流」。
 感謝。

 北風一雄氏のこと(1)
 北風一雄氏(以下、敬称略)は引退後、自伝を2冊出版されているが、「ルーツ」については書かれていない。1912年(大正1)11月生まれ、父上は神戸製鋼所の工員さん。
「薄給ではあったが、つつましい平和な暮らしだった」。
 脱線して、北風本家の話。北風家は兵庫の名主で、海運で栄えた。家伝では天皇家につながるが、確認できる史料では南北朝時代、南朝に仕えた豪族。戦国の頃、兵庫で海運業を起こし、江戸時代には物流・倉庫・商業・金融・情報を掌握した。「兵庫津の北風か、北風の兵庫津か」と謳われ、『菜の花の沖』の高田屋嘉兵衛は、元はここの番頭さん。
 最後の当主は66代目貞知(のち正造)。京の長谷川家――北面の武士の末裔で、鳥羽天皇御陵を管理――からの養子で、実兄が養子に入っていたが病没し、続いて正造が入った。両家は南北朝以来の縁。母は有栖川宮家の右筆。朝廷との関係が深い。正造も9歳から15歳まで関白九条道孝に仕え、剣は直心影流。兄の死がなければ勤皇の志士だったはず。
 28歳で当主となった正造は天領の豪商だから幕府の信任も厚かったが、勤皇派に財産をつぎ込み(現在の価値で百億円単位)、支援した。明治政府になっても、地元の名士として数々の公職を引き受けた。現在のJR神戸駅はすべて北風家所有地を寄付したものという。しかし、事業は衰退、1895年(明治28)正造は寂しく東京で亡くなり、一族も没落してゆく。
 一雄の家がどの程度の傍流かは定かではない。規模や立場の差はあれ、本家の没落と一雄が手塩にかけた二つの本屋――南天荘とコーベブックス――の消滅を私は重ねてしまう。
 一雄が小学3年の時、父は独立して町工場を経営するが失敗。2年間父と離れて母親の里、広島県の能美島で暮らす。中学受験をあきらめ2年の高等科を住み込みで働きながら卒業。1927年(昭和2)、神戸製鋼所の養成工試験に合格、勤務しながら3年定時制の教育を受けた。元々読書好きで、小学4、5年生頃立川文庫を買ってもらっては、友人たちと交換し読みつくしたという。長じて古本屋を巡り、小遣いの大半を費やした。当時は円本ブーム、後の古本屋開業につながる。
 2度の徴兵後、38年(昭13)4月灘区中央商店街(現在の灘中央筋商店街と思われる)に古書店「中央堂書店」を開く。戦場の体験で一雄の人生観は周囲の人たちと違っていた。職場に復帰しても、上司と衝突し転職を考える。「失望と違和感を持つ自分に驚いた。きっと己の心のおごりだろう」と書いている。父の勧めもあり古本屋を開業。世話をしてくれたのは小学校の同級生亀岡とその友人星野勇。星野は当時古書組合の役員。翌年、一雄は星野の妹と結婚する。同業者の勉強会には必ず出席し、「先輩には辞を低く教えを乞うた」。「古書業界は親切にリードしてくれ、不思議に同業者は親切だった」。午前6時開店午後11時閉店、休みは月1日。繁盛するが、経営の矛盾につきあたる。仕入れは古書市場か店買い、欲しい本・お客の注文品が思う通りは入らぬ。それに盗品を買ってしまった場合の警察での取調べ・後始末。そこで、新刊スペースを設け、改装し、従業員を増やす。商売は順調、家族も増える。しかし、世の中は軍事一色。43年(昭18)1月、3度目の召集、戦場は北満州。

(続く)

【参考文献】
須田京介『風果てぬ 北風正造外伝』神戸新聞総合出版センター(2008年3月)
北風一雄『星と風』(1992年12月)、『六甲管見』(1994年6月)いずれも自費出版
兵庫県古書籍商業協同組合編・発行『六十年史』(1975年1月)

(2008年3月記)


本屋の眼番外のTOPに戻る


【第3回】本屋のこと、思い出すままに(3)
   平野義昌(海文堂書店)


 宝文館、2月4日再開、営業時間正午から午後6時。店長さんひとりでやってはる様子。公立小中学校の教科書を全点面陳、辞書、学参、英検、漢検という品揃え。新学期が始まればまた変わるかな、自習書(虎の巻)をずらーっと並べたら面白いかも、などとヨソ様のこと考えている場合ではない。
 「ユリイカ2月号 特集中島らも」を見ていたら、サイン会の写真があった。見覚えあるカバー(書皮)は「コーべブックス」のもの。『頭の中がカユいんだ』(大阪書籍)刊行時だとかで、1986年(昭和61)。私は既に三宮ブックス勤務、当時在籍していたはずの現在海文堂同僚海事ゴット氏も文芸クマさんも「知らない」「覚えていない」と言う。歳のせいか? しっかりしいや、わしぁだれを頼ったらええねん。

 日東舘書林のこと(1) ――(2)があるかどうかはわからん。
 大丸前にあった老舗、震災で倒壊、そごう店も同じく全壊して、しばらくは垂水店だけが営業していたが、廃業。
 1891年(明治24)石丸甚八が裁判所前(我が家の近所)に書籍商と宗教雑誌「日本魂」発売所を開業。1900年(明治33)卸部を開設、教科書・一般書籍・雑誌の取次業務も開始。1903年(明治36)元町5丁目に移転。石丸は1925年(大正14)神戸区会議員になる。
 『君の名は』『鐘の鳴る丘』で有名な劇作家・小説家菊田一夫の半自伝的作品『がしんたれ』(甲斐性なし・能なし・役立たずという軽蔑のことば)に本屋が出てくる。菊田は不幸な生い立ちで、少年時代に厄介払いのように奉公に出された。大正9年、12歳で大阪の薬種問屋。ここで「がしんたれ」と殴られて働く。小柄でのろまな少年は飯も食いはぐれる。負けずに腹いっぱい食べるために「汁かけめし」を覚え、作家として成功しても変わらなかった。仲介した人間がワルで、菊田を二重に斡旋して契約金をふところにしていた。結局薬種問屋は3ヵ月。続いて神戸元町の美術商に奉公。ここは主人が温厚で夜学に通わせてくれた。学校の友人に勧められ詩を書き、主人の親戚の娘の影響で宝塚歌劇を見るようになる。文筆・演劇に目覚めたわけだ。同じ町内の書店「日東堂」の丁稚正吉と親しくなる。この書店が日東舘。菊田は3年で神戸を去る。地元同人誌だけではなく東京の雑誌にも入会し、賞をもらい、主人との間に何とも言えない亀裂が生じ、そこに金銭問題の誤解が発生、修復はならなかった。
 日東舘に戻る。宝文館とともに神戸を代表する書店だった。1953年(昭和28)に大丸前に移転し、最盛期には垂水、三宮そごう、長田の3支店があった。
 明治から昭和12年頃にかけて出版もしていて、観光案内書や神戸市街図を発行、特に地図は独占販売で繁盛したようす。その後の出版は昭和30年代になってから。郷土史、詩集、趣味実用書と幅広く活動したもよう(「歴史と神戸93」所収、片山正代「日東館の出版事業について」)。
 ある時期まで、たぶん「コーべブックス」が1965年(昭和40)に開業するまで神戸一の書店であったろうと推測する。株のチャートブックは長い間神戸での取り扱いはこちらだけ。三宮ブックス在籍当時、あれはバブルの頃、証券会社の注文を受けて毎週日東舘に出向いては10冊あまり買っていた。
 衰退の原因については知らないが、既に日販の支援を受けて、というより、傘下になり、店長は日販の人だった。それゆえ「コーベブックス」の経営から退いていたわけだが、その頃全国的に老舗書店が取次店支配になっていたのは事実だ。
 で、私が日東舘に行くようになるのは高校時代、やっぱり勉強もせんのに学参見に。相変わらず暗い学生生活や。たまにカッパブックスなんかのハウツー物。とても読書とは言えぬ。
 そうや、日東舘や、ここはなぜか女性従業員ばかりだった。
 「結局、それかー?」
 もうひとつ告白。実を言うと、「おせっかい」さんがいて、ここの従業員女性と1度だけデートした。まだ20代半ばの頃、書店員であることは双方承知。結局2度目はなかったわけで……。
 「そうじゃい、振られたんじゃい」

 聞き書きはいつからか? 急くでない。続く。


【参考文献】
尾崎秀樹・宗武朝子編『日本の書店百年』春英舎(1991年)
小幡欣治『評伝菊田一夫』岩波書店(2008年)

(2008年2月記)


本屋の眼番外のTOPに戻る


【第2回】本屋のこと、思い出すままに(2)
   平野義昌(海文堂書店)


 関係者の方々に話を聴きに行きたいが、何せ執筆忙しい。自分で調べたものだけで、とにかくしばらく茶を濁す。

 宝文館のこと(2)
 年末のシャッター貼り紙は「12・25〜1・14休業」だったが、年始10日頃に見た時は「2月から教科書・参考書専門店として再開、1月中は準備のため休業」とあった。こちらの社長は兵庫県教科書株式会社の社長でもある。公立小・中学校の教科書はいつでも買うことができたし、多くの学校を受け持っているはずで、地域にはなくてはならないお店。でも、一般読者に縁がなくなることには違いない。
 日本の近代を語る会編『識る力――神戸元町通で読む70章』(ジャパンメモリー発行、ブッキング発売)は、日本近代史をたどりながら「情報」をどう「認識」するか、過去のできごとがその後どうなって、現在の日本にどう影響しているかを考える取り組みで、そこに神戸の歴史を重ねている。特に元町通の資料や画像が豊富で、老舗の創業・街の発展がわかる年表まである。「宝文館」の記述は以下のとおり。
●1885年(明治18年)(5丁目)大阪の老舗出版元・出版問屋「吉岡寶文軒」(宝文館)が教科書も扱う書店「吉岡寶文軒支店」(今の宝文館書店)を開店する。
 ちなみに、わが海文堂書店の名が登場するのは、
●1923年(大正12年)(3丁目)多聞通に大正3年に開業した書籍小売・海事専門図書出版「賀集書店」(現・海文堂書店)が移転し開店する。
 宝文館の名は、この前後にも出てくる。
●1922年(大正11年)(5丁目)前年に「神戸新聞社」の社長を辞職した松方幸次郎の資本を迎えた書店「宝文館」が少女雑誌を出版。蕗谷虹児、岩田専太郎、加藤まさをらの挿絵、吉屋信子の小説を掲載した少女雑誌「令女界」を創刊する。
●1924年(大正13年)(5丁目)書店「宝文館」の店頭にこの頃から神戸三中(今の長田高校)に通う淀川長治が店頭に積み上げられたアメリカの最新映画雑誌「フォトプレイ」「モーションピクチャー」などを買いに来る。
 宝文館が流行のモダニズム雑誌を発行、洋雑誌も販売と、ハイカラ文化の先端を担っていた様子がうかがえる。
 神戸史学会「歴史と神戸91号」(1978年)所収、共同研究「神戸図書出版史ノート」の落合重信『明治期』に、『兵庫県書籍商組合三十年誌』(昭和12年発行)の記事がある。明治37年国定教科書特約販売店を設けるにあたって「熊谷【註】、吉岡両書店にて文部省編纂の物を出版し、検査の上本県下に配付す」。また、組合創立に際して、「吉岡平助氏代理現組長柏佐一郎氏」の名が登場する。現社長の祖父にあたる。
 同じく「歴史と神戸93号」(1979年)の「神戸図書出版ノート昭和期(戦後)」。片山正代『吉岡宝文館(大阪宝文館神戸支店)の出版活動について』には、「明治20年頃、吉岡宝文軒神戸支店として開設され……、一般書籍・雑誌の取次及び販売と並び、出版事業においても大いに活躍した形跡」とある。片岡さんが調査した出版リストでは、「吉岡教育書房支店」「吉岡平助支店」「吉岡書店」「宝文館」「吉岡平助」「宝文館吉岡支店」「吉岡宝文館」という名で明治25年から44年まで「神戸支店」としての出版記録がある。郷土誌や教育関係書中心。大正期で「神戸」の出版地が明記されている本は2点、「東京」「大阪」と並記されているものが約50点あり、神戸独自のものの正確な数字は不明らしい。昭和期になると神戸支店出版4点と、東京・大阪並記38点、昭和13年以後は神戸支店の名はないとのこと。大正・昭和には出版の大勢は東京・大阪に移っている。
 それで、私の宝文館の思い出だ。元町駅山側にあった神戸中学からの帰り道に立ち寄るようになる。海文堂も帰り道だが、子ども心に、雰囲気がちがう、のだ。もちろん、海事図書云々など知らない、雑誌や文庫もあるのだけれど、気軽に入れなかった。その点宝文館は気が楽だった。というのも、海文堂には年配の大番頭みたいな人がレジにいはったけど、宝文館のレジはきれいなお姉さんでしたから。「そういうこっちゃ」。
 『眼』にも書いたが、中2の時の担任がユニークなおっさんで、忘れもしない佐藤守先生、授業中に「本読めー」とよく言うてはった。「おとなになっても本読めー」と。で、ある日、宝文館で肉体労働者のおっちゃんがごっそり本を買うのを目撃した。明細など覚えていないけれど、マンガでも雑誌でも文庫でもなかった。「佐藤のおっさんが言うとったんはこれか」とびっくりしたのだったか、感動したのだったか。休日もここに来ていた。文学書を見るわけではない、中学生らしいかどうか文庫の棚と学参売場で時間をつぶしているだけ。学校での私は人畜無害だったから委員長やら生徒会をしていても、勉強が特別優秀なこともなく、だからといって努力家でもない、クラブ活動もたいしたことはなく、ただ学参を探して選んで勉強した気になっていた、今思えば暗い中学生だったのでしょう。本が好きだったというより、本屋が好きだった、本屋の雰囲気が心地良かった、と気づくのは中年になってからのこと。遅いというか鈍いというか……、トホホのホだ。
 だらだらと続く。

【註】
『兵庫県書籍商組合三十年誌』によると、「熊谷」は「熊谷鳩居堂」(のち久栄堂)。京都の書籍・香・筆墨販売業の支店として明治元年には開設されていたよう、大正3年廃業。

(2008年1月記)


本屋の眼番外のTOPに戻る


【第1回】 本屋のこと、思い出すままに(1)
   平野義昌(海文堂書店)


 何の準備も取材もせず、ただただウスーいアイマイな記憶を頼りに、思い出したか思いついた順に書く。その前に、私の職歴。1976年3月コーベブックス入社、5年でスッテン転んで“女の園”化粧品屋で1年9ヵ月、ひっくり返って、83年1月三宮ブックス押し込み強盗ならぬ入社、ここは何とか20年あまり、ところが、家主が資産を有効にお使いになりたいとかで店舗消滅。2003年4月海文堂書店に漂着、昔からここにおったような顔してちんたらやっておる次第。エラソーなことを書ける経歴じゃあござんせん。


 南天荘書店のこと(1)
 手元に南天荘書店のPR誌『野のしおり』25がある。85年12月発行の最終号。南天荘は灘区にあった老舗書店。
 12月8日海文堂でのイベントに「書肆アクセス」の畠中理恵子さんをお迎えした。11月17日「アクセス」閉店、その残務処理の合間を縫って手弁当で来てくださった。イベントの企画は「みずのわ」ネコ社長一徳、加えて「スムース」林哲夫、わが店長福岡宏泰、いわゆる『本屋の眼』黒幕三悪人、マチゴウタ三大人がそれぞれ畠中さんと厚い深いいやらしーい信頼関係を紡いでいたことによる。前日に到着された畠中さんを福岡・一徳・平野(私には大恩人、初対面のこの感激を文にしたいが、それでは10回分でも足らんのであきらめる)がわれらの高級立呑酒屋「赤松酒店」にご案内。神戸新聞美人記者平松ちゃんと合流。あとからメロン女史も参加。粛々と始まった酒も自然にいつもの手酌で遠慮も何もなくなった頃、畠中さんが『野のしおり』を取り出された。「アクセス」で販売していたものが棚か倉庫か、奥のほうから見つかったそうで、すでに南天荘は存在せぬし、よかったら全部送りますと。
 で、私のところにも『野のしおり』がやって来た。この号116ページ、通常の倍以上のボリュームとかで、「随分とお金がかかりました。定価200円。払って下さい」と最後に書いてある。
 編集はあの元正章さん。南天荘と言えば元さんだった(経営者の北風家については後日)。海文堂の小林さん、コーベブックスの松本さんと3人で『神戸図書ガイド』を作成し、3書店共同ブックフェアも開催。小林・元両氏を初めてお見かけしたのは、「地方小」立ち上げ後川上さんが大阪に来られた時だから80年でしょう、『図書ガイド』作成まもなくのこと。私はベテラン書店員の皆さんの話をフムフムと聞くばかり……、そんなワケがない。忘れもしない、生意気言って当時ユーゴーの「鬼」梅原さんに怒られた。元さんはその後も灘・六甲地区で地域おこしにからめて次々とフェアを開催され、「南天荘の元」は業界で轟いていた。
 たぶんこの編集作業、彼ひとりでやっていたのでしょう。執筆者、同社の社長を除いては以前修行に来ていたという彦根の人だけのよう。協力者がいなかったのか、協力させなかったのか、勘繰ってはいかん。元さんの人脈で出版関係者、地元の識者が寄稿しておられる。20年以上の歳月、幹部になった方、転職、独立、定年、業界から離れた方、鬼籍に入った方も。
 このPR誌、8年続いたのは元さんの力もありましょうが、書店にまだ元気があったからでしょう。それがボチボチ……。この時点で、南天荘はメイン六甲店(国鉄六甲道駅南100坪)、本店(同駅北25坪)、阪急六甲店(阪急六甲駅内50坪)、阪神深江店(東灘区30坪)と4店舗あった。梅田に出店していたこともあったと記憶。ちゃんと調べときます。
 南天荘はコーベブックスの株主の一社で、社長は日東舘書林だったと思う。南天荘の北風一雄氏が専務としてコーベブックスの経営を見ていた。実務は当時営業部長の村田耕平氏(のち三宮ブックス)。日東舘が降りて、南天荘社長だった北風氏の長男がコーベブックスの社長を兼任するのが80年。そのことと直接関係はなく、私は81年3月転んで行く。重役の方ではいろいろあったようで、それはまたの機会。


 宝文館のこと(1)
 神戸随一の老舗書店「宝文館」が12月24日で閉店と聞いたのは11月26日の朝礼時、当店経営者から。後継者がいないというのは何年も前から言われていたので、驚きはしないが、とうとう、という感じ。教科書業務は継続される由。また、湊川で気を吐いていた「ブックス花咲く街角」も明年1月末で廃業。こちらは家賃値上げに耐えられなくなったとか。一昨年の「書皮大賞」を競った書店。古書店でも神戸一の歴史と規模の「後藤書店」が年明けには閉まる。ここも後継者なし。本屋なんて静かに消えて行く商売なんです。「エエ本屋やったのになあ」と後から言われてもなあ、死んだらおしまい。
 とはいえ、「宝文館」は個人的にお世話になった。今のマンションの店舗になってからかなりの年月になるが、本屋としての魅力というか、個性というか、立ち寄ってみたいという本屋でなくなっていた。幼少の頃から親しんだ者には寂しいことだった。子どもが小学生の時、教科書をなくして買いに行って、三宮ブックスにはないベストセラー本が平積み、「さすが、老舗」と思ったことがあった。三宮ブックスには、ベストセラーなんて全くというほど入らなかった。それだけ弱小だったということだが、何を売っていたのか、今さらながら不思議。「フランス書院じゃい」。
 小学生の頃、元町通5丁目には「宝文館」の北西側に「みなせ」という書店もあった。現在、名はそのまま書道用品の専門店になっている。1年生の時、オババに学習参考書を買ってもらった本屋。「こんな本もあるんや」と思った。何せ、マンガと絵本と教科書しか知らなかったのだから。「みなせ」が本屋でなくなったのは、何時か定かではないが、小学校時代には既に、と記憶する。ごくごく普通の子どもだから、読書といっても学校の図書室が主で、などと言えばものすごい読書好きみたいだが、外で遊びまわっているほうがずーっと多かった。本屋は夏休みの感想文用の本を買うぐらい。「少年マガジン」や「サンデー」は市場の本屋で買っていた。「スポーツマン金太郎」「伊賀の影丸」「ちかいの魔球」「おそ松くん」の時代。もっと以前、『月光仮面』や『赤胴鈴之助』を読んでいたけど、どこで買ってもらったか不明。
「宝文館」の名称はあちこちにあるようで、神戸でも「灘宝文館」がある。元町のほうは「大阪宝文館」と業界では言っている。詳しくはもう少し調べてから書くつもりだが、書店開業は明治20年頃、書籍販売・卸と出版も多くされたよう。
つづく。

(2007年12月記)


本屋の眼番外のTOPに戻る







イベント・ブログ ほか

・イベント情報
・blog みずのわ編集室
・みずのわ gallery

Column ・ Essay

・みずのわ Column
・みずのわ放送局
(工事中!)
・料亭猫庵

絵はがき Collection

・平野遼
・漂着物探験
・モノクロ




 *画像をクリックすると、本の詳細へジャンプします。 「本屋の眼」

平野義昌(ひらの・よしまさ)
1953年7月神戸生まれ、ずーっと神戸育ち。76年私立大学文系お手軽レジャーコースを、それはそれはリッパな成績で卒業。同年潟Rーベブックス入社。5年後、女性の色香に惑い化粧品販売業に転職。しかし、マチガイを起こしたのか悟ったのか、1年9ヵ月でまた転ぶ。書店業界重鎮・村田耕平氏の且O宮ブックスに押しかけ入社。以来21年、書店業の「エエ時代と悪い時代」を体験。2003年4月同社業務縮小のため滑C文堂書店に。家族は、一美人妻、一美貌娘、一イケメン男子。店舗から徒歩17分、自転車5分、ケンケンしたらいつ着くか不明の距離に在住。2006年12月、おちゃらけ、下ネタ、嫁の自慢がてんこ盛りの単行本『本屋の眼』を、みずのわ出版より刊行。

海文堂書店ウエッブサイト http://www.kaibundo.co.jp/





このページのTOPに戻る